筆のまにまに 〜浮世坊主のとはずがたり〜

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help リーダーに追加 RSS 『山姥』のこと

<<   作成日時 : 2007/10/16 23:03   >>

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現行の能の中で、とても好きな曲です。何が好きかと問われると一概には申せませんが、やはり好きな曲です。ただ、自身がこの能を演ずることができるのは何時になるでしょう。まあ、あと百年もしたら、少しはその中身を解釈した上で舞うことができるでしょうか。尤も、その時には真に「山爺」になっているかも知れませぬが。

間狂言の語りの中で披露される「山姥の成り立ち」は確かに突飛なもので、時には見所から笑いが起こることもありましたが、今日の公演で馬場あきこさんが仰っていた「民俗学的見地からの風説」理論は、とても興味を覚えました。

実際に今日のアイ語りでも、山姥は「ウツボ」や「桶」、果ては「木戸」などから生まれたと(それによって「山に住む木戸(鬼女)である」というオチ)、まことしやかに説かれていましたが、私もこれまで、いくら間狂言だからといって、ちょっとばかり洒落が効きすぎてやしないかと思っておりました。しかし、実はそれこそが、打ち捨てられた物や器が百年以上の年を経て魂を得るという、即ち「九十九神」説にまつわると言ったあたり、古来の日本人らしい物の考え方であるという意見に、私も改めて感服いたしました。

そう考えるに、もしかしたら「山姥」と言う概念は、もとより眼前に存在している「山」そのものが、百年、いや千年万年の齢を経て魂を持ち合わせたもの。そこから生まれる「山の精気」が、本来人間が持ち合わせている決して具象化されない様々な想いと同化し、山から人の形へと一時的な変化を遂げた、一種「刹那的な存在」なのではないか。うまく申せませんが、たまにそんな風に想いを巡らすことがございます。

「山姥」の謡の中で好きな部分が沢山あります。中でもお気に入りはクリからサシにかけての文言。

『それ山といっぱ、塵泥より起こって、天雲懸かる千丈の峰』
『ことに我が住む山家の景色。山高うして海近く、谷深うして水遠し』
『前には海水瀼々として月真如の光を掲げ、後ろには嶺松巍々として風常楽の夢を破る』

これほどまでに壮大かつ美麗に山の景色を説いた言葉が、他にあるでしょうか。
古の人々が目にし耳にし肌で感じたものを表現することの難しさ。「九十九神」の風説然り、これまで日本人が培ってきた様々な知恵や考え、思いを現代に提示していくことは、中々に容易なことではないと、本日、久方ぶりに地謡を謡わせて頂き強く思いました。

山姥は好きな曲です。いつか演じてみたいです。


やはり百年後でしょうか。



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